
1965年、まだわずか15歳だった少年は、ハワイに住んでいた叔母をたよりにハワイに渡った。正確には「送り込まれた」と話すのはどうやらヤンチャが過ぎたことが理由だったらしいが、それはのちの藤澤譲ニ(以下敬称略)の人生を左右する大きな扉だった。
1970年代の湘南・茅ヶ崎といえば、昭和生まれには、海沿いのリゾート「パシフィックホテル」が思い浮かぶ。地元の資産家が運営していた高度経済成長のひとつのシンボルのようだった。ただ、華やかだったのはその周辺に限られ、茅ヶ崎のイメージはどちらかといえば、長い砂浜と防砂林、退屈な海沿いの渋滞ばかりの湘南の田舎町だった。
たったひとりでハワイに渡った藤澤譲ニはサーフィンに没頭した。ホノルルのスポーツショップで99ドルで買った初めてのサーフボードは、海にいけばレベルの高い地元サーファーから失笑を買ったと振り返る。カラカウア通りでは晩年のデューク・カハナモクにも2度遭遇しオーラを浴びたこともあったそうだ。
1969年、18歳の頃アラモアナをホームポイントにしていたランディ・ラリックと出会い、彼のサーフボードのコマーシャルライダーとなった。1歳ちがいのふたりには兄弟のような強い絆が生まれたのである。会うべき人とは必ず出会うものだ。この邂逅によって自身がハワイに渡って開いた扉が1枚目なら、とてつもなく大きな2枚目の大きな扉だった。
ハワイから生まれたサーフィンという競技が東京五輪で初のオリンピック種目にいたるまでに、長いながい歴史を経ている。スポンサーを集めて世界のサーフィンの大会を主催し、同時にプロサーファーの地位を保護するプロ組織が必要だった。世界中を巻き込んだ組織的な活動によってオリンピック競技は実現した。その緒をつけた人物がこのランディ・ラリックというレジェンドだ。


話を当時に戻せば、日本から修行でハワイへやってくるサーファーたちがあいついでいた。その中の一人が現在でも強い絆で結ばれているプロサーファー千葉公平氏だ。「日本でふたりでサーフショップをやろう!」
そのころ日本ではすでにサーフィンブームの火がついていた。だが、ハワイにいた彼らは日本の事情はあまり知らなかった。ましてや湘南のことを多く知らないまま、既にサンシャインサーフショップを経営していた高橋和夫氏を介してサーフショップを開いた。茅ヶ崎の雄三通りにはつぎつぎとサーフショップが生まれていた。ショップマイ、ドミンゴ、フリュードパワー。加山雄三、ブレッド&バターに続くようにサザンも産声をあげた頃だ。そしてこの茅ヶ崎周辺にはロングヘアーの若者たちがたくさん蠢いていた。のちの著名プロサーファーになっていくプロ予備軍だ。
オイルショックの影響で社会は経済的不況の頃、広島カープが赤ヘルブームで優勝し、長嶋茂雄さんが現役引退された年でもある。またベトナム戦争が終結した年でもある。強いアメリカが南アジアの共産ゲリラを負かすことができなかったことにアメリカ人は自信を失い、帰還兵がヒッピー化したりアメリカは厭世的な時代だったのかもしれない。このころのアメリカ西海岸の若者文化は映画「ビッグウェンズデー」に刻まれている。この映画は日本のサーファーたちにはミサイルを撃ち込まれたくらいのショックだった。しずかに着火していたサーフィンブームはこの映画がトドメを指した。そのシーンに出てくるサーフボードが「ベアサーフボード」だ。のちに藤澤譲ニとランディ・ラリック氏が実在ブランドとして蘇らせている。
2000年のミレニアムの前後、サーフィンはすでにブームを越えてカルチャーにの域に達しサーフィン産業も頂点に。世界的なロングボードブームが日本にもやってきた。当時そんな世界の動きをいち早くキャッチしてロングボードを店頭に並べたのはフリュードパワーが最初だった。また2014年秋に、茅ヶ崎市はハワイ・ホノルル市と姉妹都市の締結を結んだ。藤澤譲ニがこの案件でハワイとの重要な橋渡しをしたことはもう広く周知されている。
藤澤譲ニの朝は7〜8時にはじまり、犬の散歩をしたり海を見て家に戻る。
もうあまり店頭に出なくなったのは、30年近く前からそばに置くプロサーファー牧野拓滋氏を後継者としているからだ。

70年代に田舎町と揶揄された茅ヶ崎もいまでは湘南のど真ん中といっても過言ではない。茅ヶ崎駅南側の不動産的価値は湘南ゴールデンベルト地帯とされ、移住者には垂涎の的である。
「働くところは東京だから、海は7時から7時半ころになると空いてくる。若い人たちが茅ヶ崎に来て子供を育てる、それは素晴らしいことだと思うんだ」
事実、茅ヶ崎市では小学校が増えている。フリュードパワーでは1995年から子供サーフィンスクールをずっと継続してきた。
またここ数年は60歳以上でサーフィンをはじめてみたいというお客も増えている。「サーフィンは自然に望むスポーツ。けがをする、死ぬリスクさえあるから」と、店ではいざという時に備えてスクールの前に「問診票」を記入してもらっている。まさに老若男女が店に集まってくる。
「海は世界と繋がっている。海綿体みたいに癒して疲れを吸い取ってくれる。山が男で海が母親、僕はそう思っている。自然から学ぶことはいっぱいあるからサーフィンの扉を開けて入ってくる人たちに、和尚さんのように自分の経験や自分がサーフィンで得たことを伝えていきたい。」と話す75歳。
振り返れば半世紀、ずっと支えて続けてきた妻の加代子さんと茅ヶ崎で開いた扉のさきには、数えきれないほどのファンが手を振って迎えている。



取材・撮影:藤原書店(ワイズクリエイティブオフィス)
取材協力および写真提供:フリュードパワーサーフクラフト









