緑深い谷戸と潮の香る海辺。そのあいだに点在する古い家々や新しい建売住宅を眺めながら、日々脳内では「建築」と「不動産」のあいだで右手と左手を引っ張られ、綱引き大会が行われている。
設計を始めたての頃は、ただ建築の美しさだけを追いかけていた。光と風をどう取り込むか、平面にどんなストーリーを宿せるか。それがすべてだと思っていた。だが、土地を買って家を建てるには、それだけでは足りない。権利関係に始まり、建築基準法、土砂災害区域、風致地区条例、景観条例……土地には無数の「見えないルール」が張り巡らされている。美しい線を描くだけでは、一つの石すら動かせない。
図面では簡単に動かせるのに、現実では理想と役所と条例の三重ボス戦。ラスボスはたいてい境界標が見つからない。鎌倉の土地は、特にその絡まり方が複雑だ。美しい風景を守るための規制が、建築行為を制限し、不動産の価値にも影響を与える。
それでも、土地の条件を単なる制約として見るだけでは、何かが足りない。たとえば、由比ガ浜通り裏の古い長屋。その土地は法や条例にがんじがらめだが、よく眺めれば、規制によって整えられた風景のなかに、町や人との折り合いの痕跡がにじんでいる。数字や制限の裏側には、住民と土地が積み重ねてきた確かな時間がある。
鎌倉山の海を見下ろす土地には、高さを抑える規制がある。昔なら、こうしたルールにただただ憤っていたかもしれない。でも今は思う。あの美しい水平線を、未来の誰かにも見せてあげたいのだと。建築もまた、そこにそっと加勢できるのだと。「高く売れる家」をつくるだけでは、この町には根付かない。土地の履歴と、そこに重ねられる未来とを、静かに考える必要がある。
写真)鎌倉山から見える水平線は高さ条例によって守られている
不動産関係者から「建築家は不動産屋さんが嫌いだから」という言葉を耳にした。それは恐らく、設計を依頼された建築家が、購入済みの土地と施主要望のすり合わせに多大なエネルギーを使うから。「なんでこの人にこの土地を売ったんだ」という思いは不動産屋に向いてしまうのは仕方がない。お客様にとってもどう建つのかわからない土地に対して、ある種賭けのような契約を結ぶ。
「ここに理想の我が家が建つ…はず!」という、ルーレットに賭ける勇気と勢いが必要なのだ。そんな両者の不安や葛藤を少しでもなくせないものだろうか。
難易度が高く、でも美しい土地に出会うたび、私は思う。建築と不動産は対立するのではなく、むしろ絡まり合い、ほどけない糸玉のように存在しているのだと。うっかりその糸玉を引っぱると、設計図と法令集と分筆図がごちゃごちゃに絡まって、半日が過ぎていることもある。
しかし不動産屋に首を突っ込んだ建築家の私は、そのもつれに指を突っ込み、少しでも人の心に触れる空間を引き出す役目を担っているのだと自分を鼓舞し、日々結び目をほどく作業に目を瞬かせる。
小川友紀プロフィール
1980年生まれ。アトリエ系設計事務所に勤務ののち、モヤデザイン一級建築士事務所を設立。住宅や店舗などの設計を手掛ける。2024年からは鎌倉coco-houseに参画し物件探しの段階から設計目線でアドバイスしつつ、不動産業の見習い中。ピラティスを続けていたら人生最高を記録し現在身長168cm。夫と子供の3人暮らし。実家は信州戸隠、海と山を行き来する生活が今はちょうどいい。