じつはサーフィンというスポーツの日本での歴史はかなり長い。
1945年の戦後まもなくアメリカ軍人がサーフボードを持ち込んだことから歴史が刻まれたと推定するとおよそ80年にもなる。1961年開催の東京オリンピックで国民が熱狂した水泳やバレーボールに匹敵するのかもしれない。
1970年代にはただの遊びだったサーフィンがしだいに競技として進化する。湘南では鎌倉、鵠沼、茅ヶ崎そして大磯にサーフクラブが生まれた頃だ。当時サーフボードは初任給ほど高価なものだからお金持ちのボンボンの遊びだったという。夏のビーチでは水着のサーファーガールが日焼けし、男たちは波に乗り、ビーチパーティーにいそしんだ映画のようなシーンが浮かぶ。ただこんな光景はIV小僧たちのスタイルで下町の少年たちには垂涎の的だった。
大磯にはビッグウエーバーというクラブがあった。阿部川芳夫(以下敬称略)は国道1号線の海側、海岸から50メートルくらいの家で生まれ育った。当時下町の子はなかなかこのクラブには近寄れなかった。高校を卒業するとほかに熱中することもなく波乗りをはじめた。サーフィンに没頭すると自然な流れでサーフショップを始めるのだが肝心の資金がない。そこでまだウエットスーツも行き渡っていないないころだから1_年のうち8ヶ月くらいはクリーニング屋のアルバイトで4、5年かけてお金を貯めた。
ドミンゴサーフボードのスタートは1972年。茅ヶ崎・雄三通りで同郷の小池氏が始めたショップマイの横に店を出した。70年代半ばになるとウエットスーツのおかげで冬でもサーフィンができるようになりサーフィンが大ブームにとなる。まだプロサーファーという職業が確立されない時代だ。
程なくして阿部川は地元大磯に戻ってくる。最初の店は現在の場所、漁師の網干し場だった。サーフィンが競技スポーツとして正式に組織化されたのがこの頃、アマチュアは日本サーフィン連盟(NSA)、プロ組織は日本サーフィン協会(JSO)、日本プロサーフィン連盟(NPSA)を経てJPSAという組織に収斂されていった。阿部川はその創設メンバーに名を連ねることになる。
意外なことに阿部川はコンペティターとしての輝かしいタイトルにはあまり恵まれていない。「サーフボードビジネスなんてまだ見えない時代だったから」仕事(ショップ) _との両立においてプロ選手として没頭できたわけでもなかった。1989年の専門誌のインタビューで彼はこう答えている。
Q: 20年間のサーフィンのキャリアでやっていて良かったと思うことはありますか?
『ないね。ただ一生懸命にやってきたからね。サーフィンを極めちゃったわけでもないし、もっと上手くなろうと思っている』と。
「いま人生の中で第1、第2段階をすぎて第3段階にいるんだと思う。ここまでコンペティションサーフィンばかり見てきたけど『いい波だなあ』と感じながら、いまは心からサーフィンを楽しみたいね」まだまだ新しいチャレンジをやめないと断言する。
夜は8時半ごろには寝る。酒は飲まないし夜更かしはしない。「ある意味健康的かな」と笑う。朝は5時前後に起きて朝ごはんまでウオーキングしたりイメージトレーニングのためにスケートボード。波が大きすぎると鎌倉まで行く。いまはそんな生活のリズムも乱れることはないと話す。「病気をして人間の回復力はあらためてすごいと気づいた。心臓弁膜症で大手術や原因不明で足が動かなくなった時に勇気づけられた『言葉の力』をぼくは信じている」
「サーフィンの世界に入ってくる人が迷っている時にアドバイスをあげることはできると思うんだ。家を建てる時にデザイナーが必要なように、ぼくはサーフィンのデザイナーだと思っている。夢を叶えてあげることかな」
「大磯は静かだよ。気候もいいし北風は山が防いでくれるし海から暖かい風が吹く。緑も多くてね、朝の散歩コースがちゃんとあって浜の風を吸いたい人、山の空気を吸いたい人いろんな人がいる。俺は海だけど。移住の人が増えてきたのは街中でシャワーのついている家が多くなったからわかるよ(笑)」
いまは圏央道があるから八王子方面から大磯に来るサーファーも多い。「恥ずかしいことじゃないから心を開いていろいろと土地の人に聞いたほうがいいね。お店に来てくれるお客さんには僕らも敷居が高いとダメだよね」
住宅雑誌を開きながら話は続く。『やっぱり紙の雑誌は木の温もりとか遠近感が出てくるよね。(スマホやPCの)画面からは伝わってこないね。家は帰ってゆっくりするところだから固くなる必要がない。木はいいよね、無機質で冷たいコンクリートはだめ。サーフボードも同じさ。柔らかさとかしなりが必要なんだよ』
大磯ビーチの前に建つドミンゴサーフショップは50年以上サーファーと波を見つめている。店の構えもそれほど変わっていない。そこに行けば新しい船を動かせる古い水夫の笑顔がある。新しい水夫たちは古い水夫から海の素晴らしさを学ぶことができるにちがいない。
取材・構成|藤原P 写真|ワイズオフィス (水中パドリング)小池葵